患者さんが自分の症状や不安についていろいろと言ってきても、全く相手にしないことを、森田療法では「不問に付す」と言います。森田先生は、「患者が些細なことを気にするのに対して、ことさらにこれを不問に付して拘泥を去らんとするものである」と言っています(「森田正馬全集」第2巻207頁)。たとえば患者さんが「庭の草を取っていても、対人恐怖が出て苦しくなるんです」と言ってきたとしても、それについては全く取り合わず、「草取りはどこまでやりましたか」逆に質問するようなものです。
日記指導を行う場合も、「夕食の買い物に、スーパーに行った。さんまとホーレンソウを買ってきた。帰りの坂道ですごい不安が起こった。少しの上り坂でもよくないようだ」という記述があると、「夕食の買い物に・・・・買ってきた」にアンダーラインを入れます。注を付けるとすれば「新鮮なサンマでしたか。ホーレンソウはどんな料理にしましたか」などとして、プラスの行動に注意を向けます。「不安が起こった」というところは、一切無視します。さらに進むと、「日記には行動したことのみを書いて、症状のことはいっさい書かないように」と指示します。
不問に付すのは、物事の重要度を正しく判断するためです。どうでもいいことにこだわるなということです。「症状」などというものは、いちいち取り上げるほどの価値もないものである、もっと大事なことは、日々建設的な行動をすることだということを、口だけでなく、態度でも示すのです。症状をとることばかりに夢中になっている人に、私は次のように言うことがあります。「どんな人の前でも、全く緊張せず堂々としているということで、給料を払うくれる会社があるでしょうか?」。「毎晩ぐっすり眠れるというだけで、人から評価されるでしょうか?」。お金をもらったり、人に評価されたりするには、人の要求に応えなければなりません。それが大切なことなのです。
しかしはじめから「不問に付す」のはよくありません。初めのうちは患者さんの言うことをよく聴いて、どんなことを悩み、どんな価値判断をしているのかを知ることです。まずは、徹底的に聴いて理解することです。言い分をよく聴くだけでなく、こちらからもいろいろと質問して、必要なことを聞き出すことも大切です。自分が理解するだけでなく、患者さんにも「自分のことはよく分かってもらえた」と思ってもらわなければなりません。このときには、助言も控えるべきです。相手のことがよく分からないと、適切な助言もできないからです。
森田先生は、不問療法についてさらに次のように書いています。文中「この期間」とあるのは、入院療法の第2期(軽い作業療法)の終わり頃のことです。これを見ても、はじめから不問に付していたのではないことが分かります。
「なお、この期間、患者が、自分の病症に対して、常に自らその経過を測量する心を打破するためには、なるべく患者に、自分の容態を言わせないようにし、またその患者がその苦痛を訴うるに対しては、いわゆる不問療法により、知らぬ振りにて、これを放任し、あるいは患者が『頭が軽くなった、精神が爽快になった』などと告ぐるに対しては、『これは単に一つの自覚に過ぎない。病症ということから見れば、苦痛と同一である。爽快の後には、その反動として常に必ず不快の来るものである。真の健康は、快と不快との感を脱却した時にある。胃部に何ものをも感じない時に、初めて胃の健康がある』という事を説得する」。(全集第2巻356頁)
自分で、自分の悩みを「不問に付す」こともできます。そのためには、今、気にしていることが、悩む価値があるのかどうかを判断しなければなりません。悩んでもどうすることもできないこと、心の平和を失うだけのことだと判断すれば、自分で悩むことにストップをかけることです。
ああでもない、こうでもないと、くよくよ考えるのをやめるための一番いい方法は、自分の本来の義務に立ち返り、しなければならないことに手を出すことです。仕事、掃除、洗濯、食器洗い、草取り、買い物、読書などやることはたくさんあると思います。
どうでもいいこと、悩んでも何のいい結果も得られないことに、多大の時間とエネルギーを使い、大切なことをおろそかにしたしまう。この悪習を絶ちきる方法が、「不問に付す」ということです。
森田正馬全集からの引用は、現代表記に改めてあります。
D.カーネギー著「道は開ける」の中の、「悩みに歯止めをつけよう」、「おがくずを挽こうとするな」などの章も、参考になると思います。
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