| 死にかけても飲んだ |
「この閉鎖病棟は扉に鍵がかかっていて自由に出入りはできません。本当にそれでよいのですね。」
私がある精神病院に入院する際、アルコール患者担当の医師は二度、私に尋ねた。私は答える、「それで結構です。私は本当にアルコールをやめたいのです」。本気でそう考えていた。何とかしてアルコールをやめたいという気持ちは真実であった。
この病院を訪ねる二十日ほど前、私は一人で家の留守番をしていて酔っぱらい、寝込んでしまった。その時、寝タバコの不始末から火がついて家族と住んでいた家に火事を起こしてしまったのである。そして私自身も燃えている部屋の中で発見され、一酸化炭素中毒で重体のまま救急病院にかつぎ込まれた。その晩生死の境をさまよい、翌朝意識を取り戻した。消防隊長の話によると、発見された時点ではすでに心臓が止まっており、瞳孔も開いてしまっていたそうである。人工呼吸を二度施しても心臓は静止したままで、もう一回だけやってみようという最後の試みでようやく動き出したそうである。まさに九死に一生を得たのであった。その後四日程その病院に入院し、肺炎の併発を防ぐためという医師の勧めに従い、海に近い空気の良い場所に一週間、静養に行くことになった。ちょうど伊豆の方面に住んでいる友人がいたので、その友人の所へ泊めてもらえることになり、私は一人で伊豆に向かった。家族は火災の後始末で大変忙しかった所でもあり、また、4日前には重体であった私がまさか酒は飲むまいからと、一人で行く様になったのである。
しかしその、まさか、が現実になってしまった。伊豆に向かう列車がまだ東京駅を出発する前から、もう私は缶ビールを飲み始めていた。そして道中も飲み続け、列車が行く先の駅に着く頃には、窓の枠一杯にビールや酒の空き缶が並んでしまったのである。自分が原因で火事を引き起こしてしまったこと、これから先のことなどを考えると、飲まずにいられなかった。現実から逃げたかったのだ。私の体もアルコールを欲していた。4日前には死ぬか生きるかの重体だった私が、またアルコールを飲んだのである。下手したら自分が死んでしまうかもしれない体調であっても、そんなことにはお構いなしであった。まさに「アルコール依存症患者は自分の命よりもアルコールを大切にする」という言葉通りの行動であった。結局静養に行ったはずの旅先で、体をいたわるどころか飲み続けて過ごし、東京へ帰ったときも、どうやって東京までたどりついたのか全く覚えていないという状態であった。
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| 入院を考える |
その後自分でもさすがに考えた。「自分の酒はどうも尋常ではない。他人のようにホロ酔い加減のところでやめることがどうしてできないのだろうか。何か事件を起こした後等、しばらくの間は飲まないでいるけれども、またいつかは飲み始めてしまう。飲んでいる途中から記憶がなくなるのも不気味な気がする。このまま酒を飲んでいたら、今までよりももっと大きな事件を起こしてしまう様な予感がする。本気でアルコール問題と取り組んでみよう」。そして母親と相談し、病院に入院して治療を受けることになったのである。だから入院に際して私は、本当にアルコールをやめたいと考えていた。
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| あの人達とは違う |
しかし自分がアルコール依存症者だとは考えていなかった。なんといっても年齢はまだ若いし、仕事も家族も失ってはいない。ヨレヨレの服を着て、髪もヒゲも伸び放題、手がぶるぶる震えているのがアルコール依存症者だというイメージを持っていた。私はそんな人間とは違うと信じていた。閉鎖病棟に入り他のアルコール依存症者に会ってみて、私は安心した。他の人たちと自分とは違うという点を幾つか見いだしたからである。年齢も二十代というのは私一人であったし、何回も精神病院に入院しているという人が多かったし、仕事も何回も替え、家族にも見放されて帰る所がないという人もいた。字が書けなかったり、ちゃんとしゃべれない人もいた。何もかも私と違うと思えた。彼らこそ正真正銘のアルコール依存症者であり、世の中から落ちこぼれた絶望の人々であると思えた。私は彼らに対して優越感を覚えた。私の場合は若くて才能もあり、人にもそんなに嫌われていないと思っていたからである。人格、教養が劣り、意志の弱い人間がアルコール依存症になると考えていた。私は飲んだときはいけないが、しらふの時はむしろ他の人たちより優れていると、思いこんでいたのである。
しかしアルコールに関しては、他の中毒者たちと私と似ている点が多かった。これは大変不思議なことであった。何もかも違うはずの私と彼等が、ことアルコールに関しては奇妙に一致するのである。この点に疑問を持ってアルコール依存症に関する文献等を読んでみたが、納得のいく答えは得られなかった。アルコール依存症というものは病気であり、どんな人間でもこの病気にかかる可能性があるということが、頭脳ではわかるのだが、体で納得することができない。私と彼等が同じ人種だとは、どうしても思えなかったのだ。
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| 仲間との出会い |
その頃、担当の医師からAAというものを紹介された。ミーティングに出席してみないか、ということだった。アルコール依存症者だけの集まりであり、ミーティングの中で誰が何を話したかは、一切口外しないとのことである。私はその「誰が来て何を話したかは口外しない」というところが大変気に入ったので、出かけてみることにした。ミーティングは午後七時からなので、夕方自分に病院から外に出られるのも魅力であった。町をぶらぶら散歩してからミーティング場に着いたのだが、私がそこで見たものは、それまで私が考えていたアルコール依存症者のイメージをくつがえすような人たちだった。私と同年配くらいの若い人もいた。皆、いきいきとして見えた。「我々と一緒にやってみませんか」という言葉をかけられたとき、果たしてこの人たちが本当にアルコール依存症者者なのだろうか、と考えた。ミーティングが始まると、すぐに疑問は解けた。その人たちの話を聞いていると、確かにアルコールで苦しんだ経験を持っていた。その話は作り話なんかではないということは信じられた。私自身の苦しみとあまりにも似ている、というより全く同じであると感じた。この人たちがアルコール依存症者だというのなら、私も同じかもしれない、と考えた。それまで持っていたアルコール依存症者のいやなイメージが取り払われ、割と素直な感じで自分自身の病気を見つめることができた。頭脳ではなく、体で感じることができたのである。これが「仲間」なのだ。そして私に話す機会が廻ってきたとき、私も自分の酒の上で起こした事件のこと、今の気持等を話して何となくスッキリした気分になった。私の話したことに対して意見がましい反論を云ったりせず、黙って聞いてくれたのも好感が持てた。私は、またミーティングに出かけてみよう、という気持ちになった。これが仲間との最初の出会いであった。私がそれまで会ったことのないような人たち、同じアルコール依存症者ありながら、「アルコールを飲まない生き方」を持った仲間であった。
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| 希望が生まれる |
私はその晩病院で考えた。あのAAの人たちは以前、アルコールで大変苦しんだという。そして今は全く飲まないで、しかも楽に一日を過ごしているという。私の経験では、アルコールを飲まないでいるとだんだん苦しくなってくるものだが、楽に飲まないでいられる方法があるのだろうか。あの人たちの生き生きした顔を見ていると、本当に楽しそうな気がするが、いったいどうしたら平気で酒を止められるのだろうか。私にもそれができるのだろうか。私もあの人たちのようになりたい。いや、なれるかもしれない・・・。アルコールの問題について、私の中で初めて希望が生まれた。それまでは、アルコールをやめようということは何度も考え、実行してみたが、いつもまた飲み始めてしまった。固い決心をしているにもかかわらず飲んでしまうので、自分でもアルコールがやめられるとは信じられなくなっていたのである。しかし仲間に会って「信じる」ということができるようになった。私はそれから何回かミーティングに行ってみた。仲間の話は私に理解できたし、私の話も仲間にわかってもらえた。私はうれしかった。それまでは家族でも友人でも、私の気持を話しても理解してもらえなかった。アルコールをやめようと真剣に考えているのだが、どうしても飲んでしまう。ここのところを理解できる人はいなかったのである。私としても、いくら話しても理解してもらえないから、段々人と話をしなくなった。また、人から私に話すことといえば、必ずアルコールについての意見や説教だったので、人の話を聞くこともいやになっていた。ところが仲間がそうではなかった。私の気持ちを理解してくれたし、説教ではないので、仲間の話なら聞く気持になった。私は閉じていた心の扉を開き始めたのである。担当の医師には言わない話でも、ミーティングでは話をした。
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| 再飲酒 |
しかし、毎日ミーティングに行っているわけではなかった。私は病院内のアルコール患者達の機関誌の編集長をやっていた。テレビの番組で見たいものがあったりすると、いろいろ理由を並べてミーティングに行かなかった。テレビなどを見ている場合ではなかったのだが、その頃は気がつかなかった。ミーティングに毎日行くことがいかに大切なことであるか、後になってわかった。それは、ミーティング行った日にはアルコールをやめられる、という考えを持てるのだが、ミーティングに行かない日に他のアルコール患者の人たちと話していると、やっぱりアルコールをやめるのは無理かもしれない、という意見に巻き込まれてしまうからである。そして、やめるのが無理なら何とかしてうまい飲み方ができないだろうか、という考えに変わってしまう。私は院内作業で陶芸をやっていたのだが、土を練っているととても心が落ち着く感じがした。そうだ、このような静かな、平和な気持ちを持って飲めば、ちゃんとコントロールができるに違いない。コントロールができれば、何もアルコールをやめる必要はないのだ。そういう考えに変わってしまった私は、ある日、作業の途中で病院を抜け出し、飲んだ。コントロールはできなかった。やはり以前と同じように、飲み出したら途中でやめられなくなり、気がついたときには保護室の中であった。私はもうろうとした頭で考えた。AAの人達の言っていてことは本当だ。どうやってもアルコールにコントロールはきかない。うまく飲むことは、もうできないのだ。今度はミーティングに行ってみよう・・・。
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| どうしたらやめ続けられるか |
毎日ミーティングに行くようになって、自分がアルコールをやめられるということを信じ続けるためには、毎日飲まない生き方を続けている人達、つまりAAの仲間に毎日会いに行く以外にないのだということがわかってきた。たとえどのような事情があっても、それがアルコールを飲む理由にはならないし、ミーティングに行かない理由にもならないのである。そのうちにAAの仲間が、夜のメーティングだけではなく、MACという所で昼もミーティングをやっている、昼間、MACのミーティングに行き、夜は我々のミーティングに来たらどうか、ということを提案してくれた。同じ病棟の人で熱心に昼のMACと夜のAAミーティングに通っている人がいたこともあり、私も、どうせ取り組むの徹底的に昼夜行ってみよう、という気持ちになった。MACという所は午前九時から午後九時まで、年中無休で開いていて、昼のミーティングは当時午後一時半からであったが、午前中から居ても良いということであった。
初めてMACに出かけたときは少々不安であった。MACには、刑務所に入ったことのある人とか、飯場やドヤで生活している人も来ているというので、酔っぱらった者がいたり喧嘩沙汰があったりするのではないか、という不安であった。しかしMACに着いてみると心配したほどではなかった。いかにも荒くれ者の様な印象の人はいたのだが、皆おとなしく、笑いながら話をしていた。酔っぱらった人も来たが、皆門前払いでMACの中へは入れてもらえないようであった。職員にそのことを尋ねると、飲んでいる人に何を話しても話にならない、とにかく飲むのをやめなければ、何も始まらないのだ、それに酔っぱらった者がいれば他の飲んでない人も動揺する、飲んでいる人よりも、今飲まないで来ている仲間を、我々は大切にしたいのだ、ということを話してくれた。職員自身もAAの仲間、アルコール依存症者であった。毎日昼はMAC、夜はAAミーティングに行くという生活が始まり、それまでの夜のミーティングだけの時には出会わなかった、様々なタイプの仲間と出会うことができた。私よりも年齢の若い人、知識や教養の高い人、私と同じように火事を起こした経験のある人、精神病院に入院した経験のない人、また、外国人もいた。皆、仲間であった。様々な仲間と出会い、色々な話を聞くたびに私は、本当にアルコール依存症というのは病気なのだな、どんなタイプの人間でも、病気なのだからアルコール依存症にかかる可能性があるのだな、ということを身体で納得することができたのである。
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| 回復を信じる |
そして、私は自分が考えていたほど悲劇的な人間ではなかった。人生の中で様々なでき事が起こったから飲んだ、というのが私の考えであったが、全く逆であった。私がアルコールを飲むことによって、色々な事件が起こったのである。私は自分自身を随分いじめてきてしまった。自分で自分を責めることが多かった。これからは自分をゆるし、いたわってやろう、という気持ちに変わってきたのであった。それは希望が持てたからであろう。今、自分がアルコール依存症という病気にかかっていることは間違いないが、これは回復可能な病気である。回復している仲間が大勢いるのだから。私一人がアルコール依存症者だというわけではないのである。人間にとって、これほど勇気づけられる事実はないと思う。自分だけではなく、仲間がいるのである。そして私さえ「やる気」を起こせば、仲間のように回復できるのである。やるか、やらないか、それは私自身が決めることである。
私は仲間に会い続けるうちに、アルコールがやめられるかもしれない、という淡い気持ちから、必ず私も回復できる、という強い気持ちに変わっていった。それは「何か」を信じるようになったのだと思う。その「何か」というのは、仲間であり、私自身の回復でもあり、今の私が信じている神の偉大なる力である。しかしまず最初に仲間を信じたからこそ、私自身の回復を信じられるようになり、神の力も信じられるようになったのである。すべては仲間の中から始まったものである。私はミーティングというよりも仲間と会うこと自体が楽しみになっていった。そして仲間の提案してくれることを素直に受け入れるようになった。それまでの私は、他人の提案することにはまず反発をし、聞く耳を持たなかったが、仲間の提案には不思議に抵抗なく従うことができるようになったのである。これは私自身の考え方が変わってきたからだと思われる。
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| 仲間の提案 |
仲間の提案の一つは、入院中から毎日ミーティングに行く習慣を身につけてしまわなければ、退院したら毎日行く「つもり」であっても、実際にはその通りに事が運ばない。退院すると全くミーティングに来なくなり、またすぐ飲んでしまう人が多い。退院してから先の準備は入院中にやっておくことだ、というものであった。これはよく納得できた。実際に私と同じ病棟の人で、週に一,二度ミーティングに行っていたのだが、退院してから全くミーティングに出てこなくなって、すぐに飲み始めてしまった人がいたからである。他人事ではない、という感じであった。
もう一つの提案は、退院してもすぐに仕事につかないで、三ヶ月くらいの間昼夜のミーティングに行った方がよい、というものであった。これは少々納得できなかった。三ヶ月の間、ミーティングに行くのはよいのだが、生活費はどうしたらよいのか。また、私には以前から続けている仕事があり、ブラブラしていては仕事の「勘」が鈍くなってしまうという不安があった。しかし仲間の答えは、「生活費の問題は、福祉事務所に行って事情を話し、真剣に頼んでごらんなさい。また、今のあなたはすぐに仕事に復帰できる状態ではない。自分ではそう思わないだろうが、仕事とミーティングを続けるのは無理です。三ヶ月間、昼夜のミーティングを続けてから仕事につけば、仕事も夜のミーティングも続けられるようになるでしょうが、今すぐ仕事をやり始めたら必ず夜のミーティングに出なくなる。そしてまた、飲んでしまいますよ。我々は飲まないことを続けなければ意味がない。そのためにはまず、ミーティングが先です。第一のことは飲まないこと。ミーティングさえ続けていれば、仕事も遊びもそのうちできるようになります。しかしミーティングが続けられなかったら、仕事をしていてもまた、ブチ壊しになりますよ。」というものであった。私はその提案を受け入れることにした。自分に正直になって考えてみると、仲間の言うことの方が私より正しいように思えたからである。そしてやはり、仲間の提案は正しかった。生活費の件は、福祉事務所のケースワーカーが引き受けてくれた。私なりに真剣に頼み、事実をありもままに話したのが受け入れられたのである。仕事の件は、私が三ヶ月間、昼夜のミーティングに通っている間に、私と前後して退院し、すぐに仕事についた人達が皆ミーティングに来なくなり、また飲み始めてしまったのである。これが答えであった。私は飲んでしまった人達の事実をみてゾッとした。私もすぐ仕事についていたら今頃は飲んでしまったのだろうと思った。私は仲間の提案に従ってよかったと思っている。
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| 苦しんでいる仲間へ |
自分に正直になる、仲間の言葉を聞くことが大切であることを今も感じている。私は最初にミーティングに行って仲間と会い、そして「何か」を感じたのである。今もそれは変わらない。ミーティングに行き、仲間と会い、そして「何か」を感じる。今までも、今も、そしてこれからも続けるのである。我々は常に今、自分が何をするべきであるかを考える。今日一日、自分のやるべきことと精一杯取り組んでみるのである。できるか否かは別として、まず取り組んでみることである。あれほど私には無理だと思い込んでいた「飲まない生き方」が今、できるのである。絶望することはない。自分で無理だと決め込んでしまうことはない。我々も同じであったのだ。同じアルコール依存症に苦しみ、仲間と一緒に回復してきたのである。投げ出さないで、問題と取り組んでみることである。自分自身で扉を開き、第一歩を踏み出すこと、飲まない生き方を持つAAの仲間に会いに行く。私は扉を開いて、本当に良かったとを感じている。だからこそ、まだ苦しんでいる同じアルコール依存症の仲間に今、我々は確信を持って言える。
「我々と一緒にやってみませんか!」
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| 精神病院への入院 |
ある日、母が「お前の考え方はどうもおかしい、頭が本当におかしい。一度病院で脳波をとってもらおう」と言いだしたのです。私は脳波をとりに病院に行くことになり、初めて精神病院に行きました。初めての事でもあり、脳波を検査してもらうのだから、入院なんて考えてもみませんでした。しかし入院になり、鍵のかかる病棟へ入ったのです。私は病棟へ入って驚きました。色々な心の病気にかかった人たちが病棟内をふらふら歩いているのです。今考えればわかるのですが、その時はとてもこわい感じでした。あまりに怖かったので、母に言ってその病院を一週間で退院しました。この時から私の病院、とりわけ精神病院への入退院の繰り返しが始まったのです。
一回目の入院で、私が精神病院へ入ったのはアルコールに問題があるためだということはうすうす感じていましたが、アルコール中毒という病気だということは認めませんでした。だからアルコールを飲まなければよいとだけ考えて退院し、その日に私は、母とおばに、もう酒はやめたと宣言したのです。そのときの母の顔は、「本当に良かった、こらしめのために入院させたのが効いた」という感じでした。私は家に帰ってしばらくは、アルコールを飲みませんでした。多分一週間くらいだと思いますが、アルコールのない一週間は私には長くつらい日々でした。
私はだんだん元気がなくなりました。それに気づいた母は、ビール一本くらいならばいいのではないかと言いだしたのです。私も母がそう言うならと、ホッとした気持になり、毎日ビール一本を飲むことにしました。母が毎日ビール一本を用意してくれるのです。私は仕事から帰るとそのビールを飲みました。しかし一週間たつとビール一本では足りなくなりました。しかし家では一本以上飲めないので仕事の帰りに飲み、家に帰ってまたビールを飲むという生活がしばらく続きました。そのうち家で飲むことも平気になり、入院する前と同じ生活になったのです。
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| 1人になって飲み続ける |
その頃、母とちょっとしたことで言い争いをし、その結果母は置き手紙を残して家を出てしまいました。この時、私の心に残ったものは、母にも見離されたという恨みと同時に、これで誰にも気がねなく飲めるという考えでした。それから私は飲みに飲みました。気がついたらどうすることもできない状態になっており、救急車を呼び近くの総合病院に入院しました。しかしそこでも院内飲酒をして強制的に退院させられました。強制退院になったその日に、またある精神病院に入院しましたが、その病院も十日くらいで退院して家に帰り、相変わらず飲み続け、また救急車を呼んで入院という風に、一年八ヶ月の間に十三回も入退院を繰り返したのです。この間に私は仕事を失い、いくばくかの貯金もなくなりました。それでも私はアルコールが原因だとは思わなかったのです。しかし心の奥ではアルコールだと分かっていたかも知れませんが、そうは思いたくなかったのです。
自分がこうなったのはすべて母のせい、兄のせいと、周りの人たちの責任にして、私は自分を慰めていました。そうしなければならなかったように思います。第一回目の入院の前に私は妻にも逃げられておりますので、恨みはありとあらゆる人に及んでいました。十三回目の入院となった高尾の病院に行く時と、私に付き添ってくれた人は、保健婦さんがただ一人でした。最初の入院には、母、おばが二人、おじの四人が来てくれたのでした。その時は、生きることも死ぬこともできない状態だったと思います。
私はベッドで点滴を受けながら、これからどうしたらよいのか考えましたが、わかりませんでした。また、自分自身に問いかけてみました。生きていくのか、死んでしまいたいのかと。私は生きていきたいと思いました。そのためには、アルコールをやめなければなりません。それにはどうしたらよいのか、そんなことを考えながら大部屋に移り、自分のボストンバッグを整理していたら、AAのプログラムが出てきたのです(何回目かの入院の時に、AAの人たちにもらったものです。多分三回目の入院の時だったと思いますが、マックというところに何回か行ったことがあったのです)。
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| 底をついたと感じる |
この時初めて、わらをもつかむ気持になり、八王子のミーティングに通うようになりました。しかし、八王子、豊田、立川とミーティングに出ても、なんにもわからないし、聞こえてきませんでした。そのうち外泊許可をもらい、土曜、日曜日を家で過ごすことになりました。私はためらいもなく、高尾の駅で二合ビンを二本買い、飲みながら家に帰ってきて、また飲み、酒が足りなくなってウィスキー四合ビンを買い、飲んだのです。そうしたら次の日には病院に帰れなくなったのです。私はビックリしました。あんなにアルコールに強かった私が、少し飲んだだけでダウンしてしまうとは思ってもみない事だったのです。
その時、私は本当に底をついたと感じたのです。もう私はアルコールが飲めない身体になったのだと。これが今考えると、AAの第一ステップ、アルコールに対して無力ということではなかったかと思います。私は病院に電話をかけ、明日帰院すると言い、その日には飲まないで何とか次の日に帰ることができました。その日からです。私が本当にAAのミーティングに出席するようになったのは。
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| 本気でAAミーティングへ |
ある時、小平のミーティングに出席すると、前にマックに行ったときに会った仲間がいたのです。その仲間を見たことにより、ミーティングに出席していれば、飲まないでいられるということが信じられるようになったのです。その日から私は、毎日AAのミーティングに出席するようになり、どんなことがあっても休みませんでした。退院が間近になって不安がありましたが、ミーティングだけは休まずに続けました。そして退院したその日にマックに行き、そこで昼のミーティングに出席し、夜は立川のAAミーティングに参加して、初めてスポンサーにミーティングのプログラムを決めてもらいました。昼はマック、夜は立川グループのAAと、私はプログラム通りの行動を一回も休まず続けました。
今考えると、私にはそれ以外にやることがなかったのです。過去退院すると、まず仕事をしなければと考えて行動し、必ず飲んで病院に逆戻りというパターンでしたので、今度はスポンサーが決めてくれたプログラムにすべてお任せしたのでした。考えることよりも行動を第一にしたのです。
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| 病気を認める |
その結果、だんだんミーティングの話の内容が分かってきたのです。私がアルコールを飲んでいたのは、アルコールを飲まなくてはいられない病気にかかっていたのだということが分かり始めたのです。その頃から私はアルコール中毒という病気を認めるようになったのです。
私が病気を認めなかった原因はいろいろありますが、私には幻視幻聴、手のふるえ等が全くなかったのも、その大きなものの一つです。保護室で見たり聞いたりした、そういう自覚症状が私には全くなかったので、この病気を認めるのに大変時間がかかりました。
しかしミーティングに出ていると、私も飲んでいればいずれはそういう症状が出るということを信じることができたのです。また自覚症状が出るだけならよいのですが、死んでしまうことも分かってきたのです。仲間の正直な話を聞くことにより、アルコール中毒という病気は、死病という重大な病気だということも理解できました。またこの病気にかかると、肉体的、精神的、霊的、経済的にボロボロになってしまい、まわりの人たちをも巻き込んでしまうということも理解できました。こうしてミーティングでの仲間の話によって、いろいろなことを気づかしてもらえました。
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| 私に奇跡が起こった |
そしてある時、スポンサーにこう言われました、「あなたに奇跡が起こりました」と。初めは何のことだか分かりませんでしたが、一人になって過去をふり返って、退院して一滴も飲んでいない自分があったことに気がついたのです。今まで無我夢中でミーティングに参加していたので、あまり考えても見なかったことですが、スポンサーから初めて奇跡という言葉を聞いて、私は不思議な気がしました。その時は、どうして今まで飲まないで来られたのか説明することができなかったのです。私がやってきたことは、昼のマックと夜のAAミーティングに出て、仲間の正直な話を聞き、自分の正直は話をしてきただけだったのです。それだけで、あんなに自分自身をボロボロにしてきたアルコールから、遠ざかっている自分があったのです。その頃からハイヤー・パワーの存在を意識するようになりました。
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| 仕事を始める |
また私は退院して四ヶ月目に仕事につくことができました。その時にも、スポンサーのサゼスションや仲間の話によって、AAミーティングを第一に考えることが出来たのです。仕事を選ぶにも、ミーティングに出席できることを条件にし、そのような職場を与えられました。仕事をして、夜AAミーティングに出ることができるだろうかと、初めはとても不安でした。しかし多くの仲間が同じ条件の下でそれを可能にしていることを見ることによって、勇気が与えられたのです。そして私も昼は仕事、夜はAAミーティングという生活をするようになりました。
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| 感謝 |
そういう生活を繰り返していた夏のある時、会社の帰り駅へ急ぐとき、ふと腕を見ると、汗が一杯出ていたのです。その時私は、ガーンという感じがしました。感謝というのは、こういう感じをいうのではないだろうか。感謝とは、自分自身の内面から、じわじわとふきでてくるものではないだろうか。私はなんとも言えない気持になりました。ほんのちょっと前まで精神病院に入っていた人間が、自分から酒をとったら何が残るかと言っていて人間が、妻、子供、母、いろいろな人たちが私の前から逃げて行かねばならなかった人間が、すなわちアルコール中毒の私が、今アルコールのない生活をしていられるのは、何のおかげかを考えたら、感謝せずにはいられない気持になりました。
そしてこの気持ちを表すにはどうしたらよいかを考えたのです。この病気にかかったら、自分自身が人間的に回復することが、感謝を表すことではないだろうか。その為には、AAの十二ステップがあるということが、ミーティングでの仲間の話によって理解できたのです。
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| 棚卸し |
一年くらいたって、私は十二ステップの中の五のステップをする事ができました。その結果、自分自身に起こった変化は、とても言い表すことのできない解放感でした。それまでの自分は、アルコールから遠ざかっているとはいえ、不安、恐れ、恨み、罪の意識、自己憐憫のために、感情が不安定なときが多くあったのです。けれども五のステップをやらせてもらったおかげで、そういうものから、ある程度救われることができたのです。
またアルコールからは本当に解放されました。さらに自分が傷つけた人がどんなに多くいるのかということも分かり、その人たちに埋め合わせをしていく心の準備も、徐々にしていかねばならないということも、はっきり認識することができました。そういう生活の中で、ハイヤー・パワーが私に求めているものが何だろうかと考えてみた場合、それは人間らしく生きなさいということではないだろうか。その人間らしく生きる道具として、十二ステップを使いなさいと言っているように思います。
私は飲んだくれの時にはいつも、平凡な生活をする人をバカにしてきました。しかし、今気づくことは、平凡な生活こそ最も大事だということです。私はまた、いつも自由に生きたいと思っていました。やりたいことを、自由に自分勝手にやるという自己中心の生き方です。そして責任はいつもまわりの人たちに転嫁してきたのです。その結果、回りの人たちは、すべて私の所から去りました。それを恨みに思い、また飲んだくれていたのです。そしてどうにもならない状態になったのです。
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| 私の責任 |
今分かることですが、自由と責任は、表と裏の関係のようなもので、いつもくっついているということです。私がアルコール中毒になって、すべてを失ったのは、誰のせいでもないのです。すべて私の責任だったのです。その自分が、AAのプログラム、仲間、ハイヤー・パワーによって救われました。今私は、自由です。そして私の責任は、ソブライティ、飲まないで生きることです。正気で生きることこそ、私に与えられた責任だと思います。
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| 私達と一緒にやりませんか |
朝、祈りの中にハイヤー・パワーに一日の力を与えてもらい、夜黙想の中に一日の感謝をする毎日ですが、私はあの飲んだくれの生活を、決して忘れることはありません。あれは夢でも妄想でもなく、現実に私に起こったことです。ハイヤー・パワーを信じて、AAの十二ステップを仲間と共にやっていけば、過去は過去として、今日一日新しい生活を楽しく送ることができます。
最後に、今アルコールで苦しんでいる皆さんのうち、私達の持っているものをほしいとお思いの方は、私達と一緒にやりませんか。
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