第7章 欲求と不安

 人間を内側から行動に駆り立てる力を欲求という。あれをしたい、これが欲しいという気持ちである。食欲や睡眠欲など生まれつき備わっている欲求を欲動、社会生活をしていくうちに生じたものを欲望という。
 同時に起こるいくつかの欲求を整理して、その場に最もふさわしいものだけを行動に移す働きが意志である。認めることのできない欲求は抑制し、実現した方がよいと思われる欲求を行動に移すのである。
 われわれは同時にいくつかの欲求を持ちやすいが、一度に一つの欲求しか行動に移すことはできない。仕事に行くときに、休みたいと思ったり、釣りに行ったらどんなに楽しいだろうかと考えたりする。このときは、仕事に行って自分の義務を果たしたいという欲求に従って、仕事に行く方をとる。これが意志の働きである。
 不安は、自分の身の上に何か悪いことが起こるのではないかと心配する気持ちである。動悸、呼吸促迫、頻尿、発汗、口渇などの自律神経症状を伴い、注意は散漫になり、眠れなくなる。

欲求と意志の関係

 意志は欲求の整理係である。欲求のないところには意志の働きは必要ない。
 ある欲求が余りにも強くなった場合には、意志の力が正常であってもその欲求を抑えることができなくなる。徹夜で働いた人が、翌日の会議で居眠りをしたとする。この場合には睡眠欲求が余りにも強くて、目を覚ましていることができなかったわけで、大事なときに眠っているからといって意志が弱いわけではない。意志の強さを判断する場合には、欲求の強弱を常に考慮にいれるべきである。
 アルコール依存症では、飲酒欲求が極端に強くなる。それは病的飲酒欲求とか渇望とかいわれ、正常の意志の力では、それに打ち勝って飲まないでいることは困難である。意志薄弱のアルコール依存症者もいるとは思うが、まだ私は見たことがない。

欲求と感情との関係

 ある欲求が果たせないでいるときは、不安になったり、緊張したり、いらいらしたりする。例えば、合格発表の前には不安が強い。空腹のときには、怒りっぽくなる。断酒後間もないときには、強い飲酒欲求を我慢しながら生活しているので、何でもないときにいらいらしたり、腹が立ちやすくなる。
 逆に欲求が達成されたときには、感情は弛緩して、解放感や喜びが得られる。試験に合格したときや、腹いっぱい食べた後のことを考えればこのことは容易に理解できよう。
 不安は、ある欲求が達成される可能性とそうでない可能性が半々くらいだと判断したときに時にもっとも生じやすい。達成の可能性が強いと考えれば、自信や希望になるし、失敗の可能性が大きいと感じれば、絶望やあきらめを生じる。
 そういうわけで、初めてのことに挑戦するときには、不安なものである。断酒できるだろうかという退院前の不安はまさにこれである。今までうまくいかなかった断酒生活を始めるわけだから、いろいろと心配になるのが当り前である。自信満々の人は断酒継続の難しさが正しくわかっていないのだし、帰ったらおもいきり飲んでやろうと思っている人は、再飲酒の不安など生じるはずもない。

不安が生じたときの対処の仕方

 不安は欲求があって、それがかなえられていないときに起こる。だから不安が生じたときには、
  1. まず第一にその裏にどんな欲求があるかを考える。
  2. 次にその欲求は達成可能であるかどうかを正しく判断する。この判断にはかなりの知恵を要する。
  3. 達成可能だと判断したときには、目標達成のために、前向きの建設的な行動をする。ここで大切なことは、不安を目の敵にしてそれを軽くしようとか無くそうとかしないことである。不安はあるがままに受け入れて、欲求実現のために努力することである。
  4. 欲求を達成することが不可能と判断したときには、その程度を下げるか、あきらめる。あきらめ上手になれば、できもしないことにいつまでも執着して、無駄な心労やお金を費やすことがなくなる。
 この公式を用いて、退院前の不安について考えてみよう。退院が近くなってくると、心配で落ち着かなくなる人は多い。また飲んでしまったらどうしようとか、短期間で再入院してしまうようなことがあれば、皆に合わす顔がないとか、あれこれと考えてしまう。
  1. この場合、その裏にある欲求は、断酒を継続して健康な生活をしたいということである。退院前に不安になる人は、まじめに断酒を考えている人である。
  2. この欲求は達成可能であろうか。断酒会などに行けば多くのやめている人があり、その気になればできないことではない。
  3. 可能であるとすれば、その達成のために努力する。AAや断酒会に毎日出席する、シアナマイドを欠かさず飲む、退院したら外来に定期的に通うなどのことを実行していけばよいのである。不安を原動力にして、前向きの行動を起こすのである。
 飲み過ぎて問題を起こしたらどうしようかという不安についてはどうであろうか。
  1. この背後には、問題を起こさない程度に飲酒したいという欲求がある。
  2. ほとんどのアルコール依存症者は、これは実現不可能である。
  3. 飲酒をきっぱりとあきらめる。

行動と欲求

 新しい行動を続けていると、新しい欲求が育ってくる。
 断酒会の人の中には、現在酒害で苦しんでいる人のために、献身的に活動している人も多い。自分が飲酒で苦しんでいるときには、そんな考えは少しもなかったのである。断酒生活を続けていくうちに、そういう欲求が生じてきたといえる。
 欲求の中には、このように何かの行動を続けていくうちに生まれてくるものがある。だから、物事を始める場合には、やる気があるかないかはあまり重視しない方がよい。それよりも自分にとって必要であるかどうかで、やるかやらないかを決定したほうがよい。やっていくうちに興味も湧いてきて、新たなやる気も出てくるものである。
断酒会やAAに行くということはアルコール依存症の治療にとって必要である。だから行く気があるなしには関係なく出席するとよい。出席を続けているうちに、来てよかった、どんどん出席したいという気持ちが後から湧いてくる。

欲求と環境

 欲求は感情と同様、環境からの影響を強く受ける。デパートを歩くと物を買いたくなる。人がお菓子を食べていると、空腹でもないのに食べたくなる。
 何かをやろうとするときには同じ目的を持った者同士が集まると、お互いに刺激しあって効果があがる。自分よりも進んでいる人を見て、早くあんな風になりたい思ったり、前向きに努力している人の姿に接して、勇気づけられることもある。ある欲求を実現しようと思えば、それが強まるような場所に行けばよい。断酒継続もまた、同じことである。
逆に、ある欲求が起こっては困るときには、それを起こすような刺激のあるところには行かないことである。すでに述べたが、飲み屋や自動販売機、宴会、飲み友達との付き合いなどは飲酒欲求をかきたてる。

精神の拮抗作用

 何かをやろうとすると、それと反対の気持ちが必ず起こってくる。仕事に行かなければというときには、休みたい気になる。試験の時に限って勉強以外のことをやりたくなる。高価なものを買ったあとでは、ぜいたくし過ぎたかなと反省する。これを精神の拮抗作用という。常に相反する気持ちを起こすことによって、やりすぎを抑え、生活の調和をとっているのである。
 酒を飲まないということを意識し過ぎると、その拮抗作用で飲みたいという気が強くなる。アルコール依存症の場合には、その飲酒欲求に負けて再飲酒してしまうことが多い。だから、飲まないことを目標にした断酒はむずかしいといえる。
 それよりも、例会に必ず出席するというような行動目標をたてた方がよい。この場合の拮抗作用は、例会を休みたいということであり、飲みたいということではない。

この章のまとめ

  1. 欲求の中には、実現したほうがよいものと、実行に移さない方がよいものとがある。この二つを上手に見分けて、正しく処理することが大切である。欲求が心に浮かんでくるのはどうすることもできないが、それを実行に移すかどうかは意志の問題であり、われわれの自由になるのである。
  2. しかし、アルコール依存症者の飲酒欲求は病的なものであり、正しい治療を受けないかぎり、自分一人の力でコントロールすることはむずかしい。
  3. 不安は無くそうとしてはいけない。その基になっている欲求が何であるかを考えて、それに対して働きかける。不安は人生の危険を予防するためになくてはならないもので、あるがままに受け入れるのがもっともよい。

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